子供の野菜嫌いに「隠す」工夫を続ける罪悪感を、栄養を届ける「愛情」と捉え直した体験記。
フードプロセッサーの音が、キッチンの隅で重く響く。
今日もまた、子供たちにバレないよう、野菜を限界まで細かく刻むため。
ハンバーグに、カレーに、お好み焼きに。
「今日も、バレませんように…」
食卓で、恐る恐るハンバーグにフォークを入れる息子の横顔を見ながら、祈るような気持ちでした。
一口食べて、眉間にシワが寄る。バレたかもしれない。心臓が跳ね上がる。
栄養を摂ってほしい。ただそれだけなのに、私は子供を騙している…。
そんな罪悪感だけが、毎日確実に降り積もっていくのでした。
完璧な母親を諦めた日、「騙してる」罪悪感が消えた
ついこの間まで、1歳頃までは、本当に何でも食べてくれていたのに…。
それが2歳を過ぎた頃から、まるでスイッチが入ったかのように、緑色のものを一切、口から出すようになったのです。
最初は私も「成長の証」なんて楽観的に構えていたものの、日に日に食べられるものが減っていく現実に、焦りが募りました。
夫はあまり協力的とは言えず、この焦燥感を共有できる相手もいない。私が、私がなんとかしなくては。
そこから、私の「隠す」努力が始まりました。
フードプロセッサーでみじん切りにし、大好きなハンバーグやミートソースに混ぜ込む。最初はうまくいきました。「食べた!」という達成感。
でも、子供はすぐに賢くなる。だんだんと警戒するようになり、口の中で違和感を探すような食べ方になったのです。
そして、ついにその日が来ました…。ハンバーグの中から、米粒ほどの大きさのニンジンを見つけ出し、火がついたように泣き出したのです。
「いや! これきらい! ハンバーグも、もういらない!」
全身の血の気が引く、とはこのことでした。
一番恐れていたこと。だまし討ちがバレて、信頼を失い、大好きだったはずの食べ物まで嫌いにさせてしまうこと。
栄養のためだったはずの私の努力は、この子の心を傷つけるためだったのか。
この「だまし討ち」が子供のトラウマになり、親への不信感につながるかもしれない。一番恐れていた、最悪の結果でした。
もう、どうしたらいいか分からない。無力感と罪悪感で、キッチンの床に座り込んでしまったのを覚えています。
「隠す」のは、悪じゃなかった
罪悪感の正体は「無理強い」の記憶
なぜ、こんなにも「隠す」ことに罪悪感を覚えてしまうのか。
それはきっと、私自身が子供の頃に「体にいいんだから、残さず食べなさい」と、食卓で無理強いされてきた記憶と、どこかで重なっていたからなのだと思います。
子供の意思を無視して、口に入れさせる。
騙すことも、形を変えた無理強いの一種だと、心のどこかで感じていたのです。
私が「隠す」ことをやめなかった理由
それでも、私は野菜を混ぜ込むことを、完全にはやめられませんでした。
あの日、床に座り込みながらも考えていたのは「じゃあ、明日からどうする?」ということ。
野菜を食卓に出し「さあ食べなさい」と睨みつけるのか。それとも、栄養を諦めて、好きなものだけを食べさせるのか。
どちらも違う気がしました。
そんな時、ふと目にした育児情報に、子供の野菜嫌いは、苦味や酸味を「毒」や「腐敗」と判断する、本能的な防衛反応だと書かれていました。
[参考]離乳食から小学生までの「食べない」悩み 小森こどもクリニック
私の育て方のせいじゃなかった。この子の本能だったんだ。そう思うと、少しだけ肩の力が抜けました。
さらに、公的な資料などで「体重や身長が成長曲線の範囲内で、元気に活動しているなら心配不要な偏食」という医学的な基準も知りました。
[参考]子供の成長について - 独立行政法人国立病院機構 四国こどもとおとなの医療センター
バレないように工夫して、最低限の栄養だけでも届けたい。
それは「騙す」ことではなく、不器用な「愛情」の形なんじゃないか?
そう思うことにしたのです。
罪悪感を「工夫」に変えた、私の3つの割り切り
「騙している」という罪悪感を手放し「バレないように愛情を届ける」と決めたら、心がふっと軽くなりました。
追い詰められていた時には見えなかった、新しい工夫が見えてきたのです。
1. 「バレる恐怖」より「バレない技術」
みじん切りがバレるなら、それ以上に細かく、見えなくすればいい。とても単純なことでした。
野菜パウダーの活用
市販されている、野菜を乾燥させて粉末にしたもの。これをハンバーグやカレーはもちろん、ホットケーキミックスやお好み焼き、スープに混ぜ込むようにしました。これなら、物理的にバレようがありません。
苦味を消す調理法
リサーチで学んだ、具体的な技術を試しました。
ピーマンなどの苦味は、油で揚げる・炒めると油の旨味でコーティングされて感じにくくなるそうです。
また、キューピーと東京大学の共同研究では、卵黄がピーマンの苦味を抑制することも解明されていました。
[参考]ピーマンの苦味を感じるメカニズムの一端を解明|キユーピー
そこで、細かく刻んだ野菜を、先に油でしっかり炒めてから卵でとじて、チャーハンやオムレツの具にする。
そうやって、バレる原因だった「味」や「食感」を消すことに注力しました。
2. 「完璧な栄養」より「笑顔の食卓」
栄養バランスは、1日単位で見るのをやめました。1週間単位で、なんとなく摂れていれば「まぁいっか」と。
それに、家でまったく食べなくても、保育園の給食は完食している日もある。
ふと、日経新聞の記事に掲載されていた「何を食べるかは大事だが、もっと大事なのは誰と食べるかだ」というフレーズを思い出しました。
家は「栄養摂取」の場である前に「安心できる楽しい時間」であるべき。
食卓で私がピリピリして「食べなさい」と睨みつけるより、笑顔で「今日も美味しいね」と言っているほうが、ずっといい。
3. 「食べさせる」ことと「触れさせる」ことを分ける
「隠して食べさせる」努力とは別に「野菜に慣れる」時間も、遊びとして取り入れました。
- 親子クッキング:
一緒に料理をするといっても、大したことではありません。ミニトマトのヘタを取ってもらう。レタスをちぎってもらう。 - 家庭菜園(という名の、遊び):
パートと育児に追われる私でもできる、ベランダの小さなプランター栽培を始めました。これは「節約」や「収穫」が目的ではありません。
もちろん、手伝ったから、育てたからといって、すぐに食べるようにはなりません。
でも、それでいい。食べなくても「土に触れた」こと「水やりできた」ことを、ただ褒める。「野菜は敵じゃない」と感じる、遊びの一環です。
いつか、この「楽しい記憶」が、野菜への警戒心を解いてくれるかもしれない。そう思うようになりました。
「まぁいっか」と笑えたら、それが一番の栄養
今でも、子供たちの野菜嫌いがすっかり治ったわけではありません。
そして、野菜パウダーをこっそりスープに混ぜながら「隠している」という事実に、心がチクリと痛む日がないわけでもない。
でも、あの頃のように「私は子供を騙している」と、自分を責め続けることはなくなりました。
これは「だまし討ち」じゃない。栄養を届けたい、私の不器用な「愛情」の形。
いつか成長すれば、味覚も変わって食べられる日が来るかもしれない。
苦味を本能で避けるなら、無理に戦わず「成長を待つ」と割り切る。栄養が心配なら、他の食べ物、例えばフルーツでビタミンを補う日があってもいい。
大切なのは、10年後の完璧な栄養バランスより、今日の食卓の笑顔。
完璧な母親、完璧な食事。それを目指してピリピリするよりも「今日、みんなで笑ってるなら、まぁいっか」と。
そうやって肩の力を抜いて笑えること。それが、私にとっても、子供たちにとっても、一番の栄養になっているような気がするのです。